2010年03月27日
トリーター:寺沢

夜明けの訪問者

「アナゴが外に出てるんで、戻してくれますか?」
夜も明けきらない朝 5時、そんな一本の電話からこの物語は始まった。

“えのすい”では、毎晩日替わりで誰かが当直をしている。
365日 24時間体制だ。
月に平均で、一人当たり 1~ 2回の割りだ。
その日は、私が当直で目覚ましも鳴り、ちょうど起きようとしていた矢先に、携帯に催促された。

「はい、分かりました。すぐに行きます。」
と、眠い目をこすりながらも、明るく答える。
どんなときでも、えのすいトリーター。そそくさと、身支度を整え、『アナゴは長いが、アナゴは魚』と繰り返し、繰り返し自分にいい聞かせながら、裏動線を急ぐ。

1分足らずで、予備槽に着くと、その電話の主と思しき、他部署の彼が掃除用具を片手に、その訪問者を指し示す。

そこには、黒くて長い物体が、わずかに干からびて転がっていた。
『うゎっ、ヘビ』と、思わず出た言葉を飲み込み、
「これですね」
と、つとめて冷静に受け流す。
気づかれては、いけない。

後ろの方を両手でつかんで、『アナゴは魚』と心に活を入れて持ち上げるが、ドタンという音が聞こえて来そうなほどの大物で、再び床に転がった。
1回目の試技に失敗した重量挙げの選手のように、軽く頬を膨らまして小さく息を吐いた。

どんなときでも、えのすいトリーター、天使の私がささやくも、1回目の高さを 50cmとすると、今度は 80cm持ち上げるが、やっぱりドタンと心の中で大きな音がこだました。
なんてこったい、えのすいトリーター、悪魔の自分が応戦した。目標、高さ 110cm。

「大丈夫ですか?」
の彼の言葉を、軽く受け流すも、焦点の定まらない視線を、彼の方に向けぬよう空を泳がせた。
悟られては、いけない。

重量挙げは 3回まで。試技には制限時間があり、基本的には 1分。重いものを持ち上げる時、その重心を通るところを持たなくてはいけない。
『右手は、もっと頭の方を持て』
と悪魔の自分に、
『3回目まで残り 25秒、冷静に!』
と天使の私。

足を前後に開いて腰を落とし、今ではおこなわれていない重量挙げのスプリットスタイルで、エイヤーと絶叫しながら、心のスイッチをオンにした。
胸の高さを保ちつつ、ツルツル滑る黒い体をなんとか水槽の中へ押し込んだ。

やったぜ、えのすいトリーター、と自画自賛。

このアナゴ、実はクロアナゴで体長約 1mの大きさ。

夜行性で、日没になると動き出し、小魚やエビ、カニなどを食べ、昼の間は穴に潜りこむことが多く、穴の魚で、アナゴとなったとか。
地方によっては、クロスケ、クロベエとも呼ばれるこのクロアナゴ、目は真丸く、憎めない顔をしている。展示されるのは、もう少し先とのこと。

それにしても、最後の一言を発しなくてよかった。
代わりに、掃除するから、捕まえて、と。
長いのは苦手なの、私。

クロアナゴクロアナゴ

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