2010年10月20日
トリーター:寺沢

崖の上がボヤ

いつの日からだろうか、海さんは山に目覚めた。
小さな漁村に生まれた海さんは、これまでの人生、山とはほど遠いところで暮らしてきた。
乾ききった大地に、大雨が浸み込むかのように、海さんは山に関する書物を読破し、ひたすら山野を歩き、寸暇を惜しんで山に向かった。

「そこに山があったから」
という名言はエベレスト初登頂後に発せられたセリフ。
神奈川の山 50選、すべてを登り終えたとき、彼は何というのだろうか。
「あー、疲れた」
ではそのままだし、歓喜にむせび涙するのも、海さんらしくはない。
右手の中指と薬指にタバコを挟み、紫煙をくゆらせ、何も発することなく、はにかんだように小さくほくそ笑む、そんな姿が彼らしい。

海田和吉。通称、海さん。湘南水族館に勤めるトドの飼育係。

8月10日、海さんはライフワークとしている神奈川の山を離れ、隣県の山に一人登った時のことだった。
その日は、3万年前、氷河期の氷で削り取られたお椀型の地形に高山植物が咲き乱れる、標高 2,500mの通称“秘密の花園”を目指した。

花園には、高山の短い夏を謳歌するように、淡い黄色のチングルマが咲き乱れていた。
秋には山肌一面が黄金色に輝き、ナナカマドやダケカンバなどの紅葉が山肌を彩り、冬には紺碧の空と純白の景色を望む、そんな花園までおよそ 400mを切ったころだったろうか。

「小火(ボヤ)だー!小火だー!」
と、天空の別世界には不釣合いな大声が山間をこだました。

海田には、その絶叫が聞こえているものの、意味を成さない音としてしか、届いていなかった。
間近に迫った、花園を目指してひたすら登った。

遠くからは、赤い花だと思っていた花園の一画が、レンズが焦点を結ぶかのように、その光景を海田の網膜に映像として、一つの風景として、脳が認識したとき、今度は海さんが絶叫する番だった。
花園に隣接する山小屋が燃えていた。

北田が絶叫した。
 『みんな、こんにちは。ホャだよ。
 いよいよこの日が来ました。きょうで 400日!
 僕がえのすいに来て 400日経ったよ~。
 わーい、わーい、400日達成だ!』

その声で、海田は目覚めた。
彼はいつも、トドのプールの陰で昼寝をしている。飼育係には、一つや二つ自分の隠れた場所があるものだ。

私も夢を見ていた。

きょう、静かにホヤが 400日を迎えたことだけは事実のようだが。

オオグチボヤ水槽オオグチボヤ水槽

深海Ⅰ-JAMSTECとの共同研究-

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