2023年10月27日

三陸フィールド調査

  • 期間:2023年10月24日~27日
  • 場所:岩手県大船渡市、釜石市、大槌町
  • 目的:東日本大震災の被災地視察
  • 担当:大下・八巻


東日本大震災の震災地を巡って/大下
10月24日から27日にかけて、岩手県を拠点に海藻の再生に取り組み、成功をしている三陸ボランティアダイバーズの活動に参加してきました。
全国的にワカメや昆布などの海藻やアマモなどの海草が生える「藻場」は壊滅的な状況であります。藻場再生の成功事例を実際に見に行き、活動にも参加してきたわけですが、みなさんもご存知の通り、訪れた岩手県は東日本大震災で被災し、復興した地であります。
今回は数日間の滞在ではありましたが、震災から復興した地を巡って、自身が感じたことを報告します。藻場再生については近日中に報告しますので、お時間をください。

藻場活動では左の画像の大船渡市浪板海岸、右の画像の大鎚町吉里吉里海岸を訪れました。

それぞれの港で共通するのは区画整理され、新たに造られた港ということです。造成で使用されたコンクリートも白くて真新しく、港全体がきれいで平坦な感じを受けます。

浪板海岸では大震災で港の外側にあった堤防が水没しており、水深13m付近に海底遺跡のようにたたずんでいます。

一見すると神秘的な感じを受けるかもしれませんが、私は神秘的というよりは津波の破壊力の凄まじさを感じました。

ダイバーが持っているのは堤防に船を繋ぎ止めていた金具になります。当然、震災前は陸にあったわけで、実際に金具を目の当たりした際には何か考え深いものがあります。

活動に参加するにあたり、大船渡市から釜石市、そして大鎚町を移動する間には新たに建設された防潮堤が各所にありました。
多く目にしたのは下の画像の防潮堤で、特徴としては堤防の最も高い位置から陸側、海側ともに堤防が傾斜しています。

こちらの防潮堤は地面から直立しており、スライドする厚い扉が設置してあります。

扉の厚さや堤防の高さは画像に写っている人を比較の対象にしてもらえれば、より実感できるかと思われます。

三陸町渡喜来にある三陸駅近くにはこの地を襲った津波についての掲示物がありました。
当時あった小学校に津波が押し寄せて、校舎裏にあった非常階段を利用して、全員が無事に高台へと非難できたとのことです。
掲示板自体が、だいぶ廃れてはいましたが、このような掲示は震災当時を知ることができます。

そして、この地区には津波の中でも倒されることなく、残ったポプラの木があります。

地元の住民の方々からは「ド根性ポプラ」と名付けられています。津波の押し寄せる波や引く波にも耐え抜き、海水にまみれながらも枯れることなく、現在もたくましく立っています。

ここまで紹介した各地に隣接する釜石市で1992年に海の博覧会が開催され、私は 1か月間、この博覧会でイルカショーをしていました。
訪れた当時の私は入社 1年目でした。釜石駅近くに宿泊し、1か月の定期券を購入して、三陸鉄道に乗って、博覧会の最寄り駅だった平田駅まで通っていました。
そんな思い出もあり、平田駅から見た景観がどのように変わったかを見たく、訪れました。

30年前の記憶ですので曖昧ではありますが、当時は駅のホームから博覧会会場と湾が見渡せたのを覚えております。
現在は新たな建物や店が増えたため、景観はさすがに変わりました。
私のなかでは海面が見えないぐらいの高い防潮堤が建設されているのだろうと思っていました。
しかし、ここには堤防は建設されてなく、当時の面影を感じることができ、非常に懐かしい思いに浸ることができました。

今回は藻場保全の活動をしつつ、各地を巡って震災後のようすを見てきました。
防潮堤やきれいに区画整理された土地、各所に点在している空き地を見ると、深く考えさせられることがありました。
その反面、津波の被害を受けながらも、残ったポプラや以前の面影が残る風景を見たときには感慨深い気持ちになりました。
「深く考えさせられる」と「感慨深い」の境界線は非常に曖昧で、人それぞれで見解は変わってくるかと思います。
ここまで期間が空いてしまったことに自責の念は少なくともありますが、今回訪れてさまざまなことを見て、知る機会を得たことは非常に良かったと思っています。
日誌を読んでいただいた方々には東日本大震災のことや災害に対する防災意識について、今一度、考える機会となれば、私としては喜ばしいかぎりです。


東日本大震災の震災地を巡って/八巻
後半は私八巻からも、三陸の地を訪れて感じることを改めて綴らせていただきます。
私の出身大学はまさに今回訪れた三陸町越喜来地区にありました。この地は私にとっては初めて一人暮らしをして、地元神奈川しか知らなかった私をとりまく世界を物理的にも精神的にも大きく広げてくれた第二の故郷です。震災について考えるという趣旨の今回の内容ではありますが、私のこの地への想いを乗せずして筆を執ることはできません。

今回この越喜来湾に流れこむ小さな浦浜川を臨む、かつて私の住んでいたアパートのあったところに“帰って”きたとき、ふと目の端に「茶色く錆びたはしご」をとらえました。あのころは気にも留めていなかった、記憶の引き出しの奥底にしまわれていた採るに足らないその「はしご」が、図らずも“あのころ”の三陸に私を呼び戻しました。越喜来湾の海の色、浦浜川を流れる水の音、海と草のにおい、アパートのベランダに遊びに来ていたネコ、浦浜川を遡上するサケ、代わる代わる心に浮かんでは消える当時の光景が、確かに私が過ごしたあの三陸へ帰ってきた、そう実感させるのでした。

私の足元にある「錆びたはしご」は当時のままだった/16年前の浦浜川。「錆びたはしご」は確かにある私の足元にある「錆びたはしご」は当時のままだった/16年前の浦浜川。「錆びたはしご」は確かにある

思えば私が取りたての免許を握りしめ、一人暮らしの荷物とともに不安と期待を積み込んだレンタカーを運転して初めて三陸の土を踏んだのは、16年も前のことになります。
大学 1年次を一般教養学部のある神奈川県の相模原で過ごし、2年生から 4年生までを三陸で過ごす予定で引越してきました。しかし私は 4年生になったとき、外部研究生として神奈川の研究所に通うことになったため、三陸で過ごした期間はものの 2年だけ、今年39歳になった私にとっては本当に一瞬でした。
しかし私の心に占めるその 2年間の大きさは、実際の割合よりとてつもなく大きく、かけがえのない、そして私の人生の礎となる時間だったことは疑いようがありません。というのも、人生で初めて一人暮らしという名の自由の切符を手に入れ、有り余る時間を贅沢に使って精神的に大きく成長し、水産生物について、講義や実習を通して深く学び、最終的には深海生物を専門とする先生に出会い、今につながるあゆみの、最初の一歩を踏み出したのが、正にこの地だからです。

今回、私の学んだ三陸キャンパスも訪れてみました。校舎の棟数はかなり減っており、当時のにぎやかな面影は乏しく、どこか寂しげでした。しかし当時学食の入っていた棟へ降りていく階段のうえに立ったとき、山間の先に広がる吉浜湾の光景が16年前と重なりました。思えば、まさか16年後に仕事としてこの地を訪れるとは、当時は予想だにしなかったです。
そして三陸臨海教育センターとして健在なこの三陸キャンパスへ今も多くの学生が訪れ、夢を思い描いて学んでいる姿は当時の私たちにも重なり、私も初心に返って気を引き締めなくてはならない、そんな気がしました。三陸キャンパスで夢へと続く道を今まさに歩いている若者に、同じ道を歩んできた者として恥じることのないように生きよう、と静かに力が湧いてくるのを感じ、寂し気な気持ちもどこかへ行ってしまったのでした。

三陸臨海教育センターキャンパスから望む吉浜湾は当時と変わらない/16年前の三陸キャンパス。吉浜湾が見える三陸臨海教育センターキャンパスから望む吉浜湾は当時と変わらない/16年前の三陸キャンパス。吉浜湾が見える

実は今回私が三陸を訪れるのは、16年ぶりではなく、12年ぶりです。最後に訪れたのは2011年の夏、震災の傷跡が生々しく残るころでした。当時別の大学の大学院生だった私ですが、お世話になった三陸キャンパスの片づけを手伝うために訪れました。研究室の片づけをしたり、生物を飼育していた水槽を洗ったり、まだ当時の校舎がそのまま残る三陸キャンパスで一所懸命に作業をしたことが思い起こされます。

そのとき、私の住んでいた浦浜地区も訪れましたが、そのとき目に焼き付いた光景と衝撃は今も忘れません。
浦浜地区全体を津波が襲ったため、辺り一面ががれきと平坦な地面だけになり、アパートは基礎だけを残し、全てがなくなっていました。見回せば、大下トリーターの日誌にも出てきた越喜来小学校の校舎と体育館など、形をとどめている建物が点々とある、そんな状況でした。


震災直後の浦浜地区。越喜来小学校は建物の原型を留める

この12年前は、正に私の住んでいたアパートの「101号室」の上に“帰り”ました。その時は今回以上にはっきりと過去を思い出せる状況にあったにもかかわらず、今回のように当時の生活が思い起こされることも無く、ただただ眼前に広がる惨状を途方にくれながら眺めることしかできませんでした。当時は気がつきませんでしたが、今その時の写真を見直してみると、「ド根性ポプラ」が空高くそびえています。


「101号室の基礎」から眺めた浦浜地区。左端に「ド根性ポプラ」が見える

現在の浦浜川。写真の右側に私が住んでいたアパートがあった。「ド根性ポプラ」も見える

震災後の惨状を目にしたときから、三陸での私の時間は止まったままでした。ときどき思い出してはあのときの惨状からからいったいどのように復興したのだろう、と想像することもできなかったのです。
しかし今回12年ぶりに三陸を訪れ、12年前は浮かんでこなかった学生時代を過ごした浦浜の姿が思い起こされ、懐かしくも寂しい心持の中、三陸での私の時間がもう一度時を刻みだしたように感じました。
「ド根性ポプラ」は一見すると広場にぽつんとひとりで立っているように見えます。しかしこの地にまつわるさまざまな方の想いが幹を太くし、この地に所縁のある方々の夢や希望が確実に葉を広げて育っている。そんな風に思えるのです。


震災当時の「ド根性ポプラ」/現在の「ド根性ポプラ」。確実に葉を蓄え幹を太くし、力強く育っている。

願わくば、この地に始まった海洋生物の道を志すという私の想いが、水族館スタッフという一つの夢、希望として育ち、再びこの地で藻場保全や地域貢献について学ぶこととなった不思議なめぐりあわせも、越喜来地区に力強く根付き育つ「ド根性ポプラ」の幹を太くし葉を広げた栄養のひとつであったなら、大変幸いです。

今回の経験を機に、関東大震災から100年となる今年、時が止まった12年前の光景を風化させることなく、改めて私の生まれ故郷でもあるここ藤沢の地で防災意識を高める一助としていきたいものです。

浜で打ち上がっている野生動物をみつけたら

触ってもいいの?

どんな病気を持っているかわからないので、触らないようにしてください。

“えのすい”はなにをするの?

打ち上がった動物の種類や大きさ、性別などを調査しています。
さらに、種類によっては博物館や大学などと協力して、どんな病気を持っているのか、胃の中身を調べ何を食べていたのか、などの情報を集める研究をしています。

生きたまま打ち上がった生き物はどうなるの?

浜から沖の方へ戻したり、船で沖へ運んで放流するなど、自然にかえすことを第一優先にしています。

水族館で救護することはあるの?

どんな病気を持っているのかわからないので、隔離できる場所がある場合は救護することがあります。しかし、隔離する場所がない場合、さらに弱っていてそのまま野生にかえせないと判断した場合は、他の水族館や博物館と連携して救護することもあります。

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