東日本大震災の震災地を巡って/大下
10月24日から27日にかけて、岩手県を拠点に海藻の再生に取り組み、成功をしている三陸ボランティアダイバーズの活動に参加してきました。
全国的にワカメや昆布などの海藻やアマモなどの海草が生える「藻場」は壊滅的な状況であります。藻場再生の成功事例を実際に見に行き、活動にも参加してきたわけですが、みなさんもご存知の通り、訪れた岩手県は東日本大震災で被災し、復興した地であります。
今回は数日間の滞在ではありましたが、震災から復興した地を巡って、自身が感じたことを報告します。藻場再生については近日中に報告しますので、お時間をください。
藻場活動では左の画像の大船渡市浪板海岸、右の画像の大鎚町吉里吉里海岸を訪れました。
それぞれの港で共通するのは区画整理され、新たに造られた港ということです。造成で使用されたコンクリートも白くて真新しく、港全体がきれいで平坦な感じを受けます。
浪板海岸では大震災で港の外側にあった堤防が水没しており、水深13m付近に海底遺跡のようにたたずんでいます。
一見すると神秘的な感じを受けるかもしれませんが、私は神秘的というよりは津波の破壊力の凄まじさを感じました。
ダイバーが持っているのは堤防に船を繋ぎ止めていた金具になります。当然、震災前は陸にあったわけで、実際に金具を目の当たりした際には何か考え深いものがあります。
活動に参加するにあたり、大船渡市から釜石市、そして大鎚町を移動する間には新たに建設された防潮堤が各所にありました。
多く目にしたのは下の画像の防潮堤で、特徴としては堤防の最も高い位置から陸側、海側ともに堤防が傾斜しています。
こちらの防潮堤は地面から直立しており、スライドする厚い扉が設置してあります。
扉の厚さや堤防の高さは画像に写っている人を比較の対象にしてもらえれば、より実感できるかと思われます。
三陸町渡喜来にある三陸駅近くにはこの地を襲った津波についての掲示物がありました。
当時あった小学校に津波が押し寄せて、校舎裏にあった非常階段を利用して、全員が無事に高台へと非難できたとのことです。
掲示板自体が、だいぶ廃れてはいましたが、このような掲示は震災当時を知ることができます。
そして、この地区には津波の中でも倒されることなく、残ったポプラの木があります。
地元の住民の方々からは「ド根性ポプラ」と名付けられています。津波の押し寄せる波や引く波にも耐え抜き、海水にまみれながらも枯れることなく、現在もたくましく立っています。
ここまで紹介した各地に隣接する釜石市で1992年に海の博覧会が開催され、私は 1か月間、この博覧会でイルカショーをしていました。
訪れた当時の私は入社 1年目でした。釜石駅近くに宿泊し、1か月の定期券を購入して、三陸鉄道に乗って、博覧会の最寄り駅だった平田駅まで通っていました。
そんな思い出もあり、平田駅から見た景観がどのように変わったかを見たく、訪れました。
30年前の記憶ですので曖昧ではありますが、当時は駅のホームから博覧会会場と湾が見渡せたのを覚えております。
現在は新たな建物や店が増えたため、景観はさすがに変わりました。
私のなかでは海面が見えないぐらいの高い防潮堤が建設されているのだろうと思っていました。
しかし、ここには堤防は建設されてなく、当時の面影を感じることができ、非常に懐かしい思いに浸ることができました。
今回は藻場保全の活動をしつつ、各地を巡って震災後のようすを見てきました。
防潮堤やきれいに区画整理された土地、各所に点在している空き地を見ると、深く考えさせられることがありました。
その反面、津波の被害を受けながらも、残ったポプラや以前の面影が残る風景を見たときには感慨深い気持ちになりました。
「深く考えさせられる」と「感慨深い」の境界線は非常に曖昧で、人それぞれで見解は変わってくるかと思います。
ここまで期間が空いてしまったことに自責の念は少なくともありますが、今回訪れてさまざまなことを見て、知る機会を得たことは非常に良かったと思っています。
日誌を読んでいただいた方々には東日本大震災のことや災害に対する防災意識について、今一度、考える機会となれば、私としては喜ばしいかぎりです。
思えば私が取りたての免許を握りしめ、一人暮らしの荷物とともに不安と期待を積み込んだレンタカーを運転して初めて三陸の土を踏んだのは、16年も前のことになります。
大学 1年次を一般教養学部のある神奈川県の相模原で過ごし、2年生から 4年生までを三陸で過ごす予定で引越してきました。しかし私は 4年生になったとき、外部研究生として神奈川の研究所に通うことになったため、三陸で過ごした期間はものの 2年だけ、今年39歳になった私にとっては本当に一瞬でした。
しかし私の心に占めるその 2年間の大きさは、実際の割合よりとてつもなく大きく、かけがえのない、そして私の人生の礎となる時間だったことは疑いようがありません。というのも、人生で初めて一人暮らしという名の自由の切符を手に入れ、有り余る時間を贅沢に使って精神的に大きく成長し、水産生物について、講義や実習を通して深く学び、最終的には深海生物を専門とする先生に出会い、今につながるあゆみの、最初の一歩を踏み出したのが、正にこの地だからです。
今回、私の学んだ三陸キャンパスも訪れてみました。校舎の棟数はかなり減っており、当時のにぎやかな面影は乏しく、どこか寂しげでした。しかし当時学食の入っていた棟へ降りていく階段のうえに立ったとき、山間の先に広がる吉浜湾の光景が16年前と重なりました。思えば、まさか16年後に仕事としてこの地を訪れるとは、当時は予想だにしなかったです。
そして三陸臨海教育センターとして健在なこの三陸キャンパスへ今も多くの学生が訪れ、夢を思い描いて学んでいる姿は当時の私たちにも重なり、私も初心に返って気を引き締めなくてはならない、そんな気がしました。三陸キャンパスで夢へと続く道を今まさに歩いている若者に、同じ道を歩んできた者として恥じることのないように生きよう、と静かに力が湧いてくるのを感じ、寂し気な気持ちもどこかへ行ってしまったのでした。
実は今回私が三陸を訪れるのは、16年ぶりではなく、12年ぶりです。最後に訪れたのは2011年の夏、震災の傷跡が生々しく残るころでした。当時別の大学の大学院生だった私ですが、お世話になった三陸キャンパスの片づけを手伝うために訪れました。研究室の片づけをしたり、生物を飼育していた水槽を洗ったり、まだ当時の校舎がそのまま残る三陸キャンパスで一所懸命に作業をしたことが思い起こされます。
そのとき、私の住んでいた浦浜地区も訪れましたが、そのとき目に焼き付いた光景と衝撃は今も忘れません。
浦浜地区全体を津波が襲ったため、辺り一面ががれきと平坦な地面だけになり、アパートは基礎だけを残し、全てがなくなっていました。見回せば、大下トリーターの日誌にも出てきた越喜来小学校の校舎と体育館など、形をとどめている建物が点々とある、そんな状況でした。
浜で打ち上がっている野生動物をみつけたら
どんな病気を持っているかわからないので、触らないようにしてください。
打ち上がった動物の種類や大きさ、性別などを調査しています。
さらに、種類によっては博物館や大学などと協力して、どんな病気を持っているのか、胃の中身を調べ何を食べていたのか、などの情報を集める研究をしています。
浜から沖の方へ戻したり、船で沖へ運んで放流するなど、自然にかえすことを第一優先にしています。
どんな病気を持っているのかわからないので、隔離できる場所がある場合は救護することがあります。しかし、隔離する場所がない場合、さらに弱っていてそのまま野生にかえせないと判断した場合は、他の水族館や博物館と連携して救護することもあります。